≪ TrueLoveStory - 8 years after, and yet...

書いた人:アルビレオ(2003-09-15)


  1. プロローグ
  2. 学生生活
  3. 高校卒業後のるり姉
  4. るり姉の計画
  5. 始動
  6. フォーマルドレス
  7. 衝撃
  8. 新しい夏へ

  1. プロローグ

    学生時代最後の夏の終わり、というかほとんど秋といってもいい時期、るり姉から呼び出された。
    夕方、待ち合わせ場所であるファミレスに向かうためにドアを開けると彼女――――神谷菜由が立っていた。
    「ああ、ちょうどよかった。これから るりさんに会いに行くんでしょ?一緒に行きましょ」
    「え…う、うん」
    彼女の車の助手席に座ってから訊いてみる。
    「神谷さんも、るり姉に呼ばれてるの?」
    「そうよ」
    と言った後、僕の顔を見てニヤリと笑い、
    「なあに?るりさんと二人きりじゃなくて残念?」
    「なんだよ、それ」
    距離が短いこともあって、それ以上はたいした会話もなく目的地のファミレスへ到着した。るり姉はまだ来ていないようだ。


  2. 学生生活

    僕は大学へ通うために古いアパートに部屋を借りていた。実家から通うこともできない距離ではなかったけど、ちょっと距離があるのと学校への交通の便があまりよくないためだ。それでも、るり姉の食事を作ったり洗濯したり、週に1、2度は実家へ帰る二重生活になってしまっている。
    僕のいるアパートに るり姉が顔を出すことも珍しくなかったけど、それ以上にしょっちゅう遊びに来るのが神谷さんだった。たまには一緒に泊まっていくこともあったりで、今では部屋にあるものの半分近くが神谷さんの私物という状態だ。結局アパートでは神谷さんの分も料理や洗濯をするはめに――――なんでこうなるかな?

    こんな半同棲みたいな生活をうらやましがる友達もいたが、実際には神谷さんと一緒にいることが多くなったので、高校時代とはくらべものにならないくらい彼女のペースに振り回されることになる。まさにジェットコースターだった。
    何度も「下着くらい自分で洗えよ」と文句を言ったけど(もっと昔から言っているような気もする)「男のくせにゴチャゴチャうるさいわね」で済まされてしまう。部屋の掃除もほとんど僕一人でやっている。
    特に困ったのが、僕のパソコンは彼女が来るとほとんど独占されて使わせてもらえないことだ。レポートを仕上げるために学校へ戻るはめになったことが何度もある。(あと、ブラウザの履歴を調べてエッチなサイトを覗いていた痕跡を目ざとく見つけられるのも別の意味で困った)
    他にも、彼女の気分次第で突然部屋の模様替えを手伝わされたり、猫を拾ってきてアパートで飼おうとしたり、数え切れないくらい口論になった。

    一番深刻だった時期は、3ヶ月くらいお互いに口をきかなかった。
    確か、3年の春ごろだったと思う。理由はよく憶えていないがたぶん些細な事だったんだろう――――

    「いいかげんにしろ、このわがまま女っ!」
    「何よ、文句があるなら出ていきなさいよ!」
    こんな調子でののしりあったあげく、僕はそのままアパートを出て家へ戻り、しばらくアパートへは近寄ろうともしなかった。
    考えてみれば部屋を借りているのは僕だし、家賃を払っているのもうちの親だ。出て行くなら神谷さんのほうだったはずだけど、なぜか僕が飛び出してしまった。
    しかし、るり姉は神谷さんに部屋を乗っ取られたような状態になったことに何も文句を言わなかった。あの時の僕はこのまま神谷さんと別れようかとまで本気で考えていたのに、るり姉にはそのうち仲直りすることまで見透かされていたようだ。

    ケンカ中は神谷さんが他の男とつきあっているという噂を聞くことも何度かあって、内心は不安でたまらなかった。でも、僕から謝らなければいけないようなことはしていないと、ちょっと意地になっていた。
    そのまましばらくたったある日、学校で神谷さんとバッタリ出会い、いつものように彼女を避けて通り過ぎようとするといきなり腕を掴まれた。
    「待ちなさいよ。明日、朝からアパートの部屋を掃除するから手伝いにきてちょうだい。いいわね?」
    言いたいことを言い終わったら掴んでいた手を離してあっという間に去って行く。
    あいかわらず自分勝手なやつだと思いつつも、なぜか翌日はアパートへ向かっていた。

    3ヶ月ぶりに覗いた部屋はずいぶん散らかっていた。
    神谷さんはいない。昨日は自分の家に帰ったようだ――――と思った直後に後ろから声がした。
    「ああ、先に来てたのね」
    振り返ると神谷さんがいつもと変わらない表情――――だったのは一瞬で、目が合った瞬間微妙に緊張した表情に変わる。たぶん僕の表情も同じように彼女を見た瞬間緊張していただろう。
    気まずい沈黙がしばらく続いたあと、突然彼女が大声を出す。
    「さあ!モタモタしないで、始めるわよ」
    そう言うと僕の横を通り過ぎて部屋へ突入して行った。僕もあわてて後へ続く。

    不思議なもので、体を動かし始めるとさっきまでの沈黙が嘘のようだった。
    神谷さんが大まかな段取りを決めて指示を出す。
    「それはあとまわしにしたほうが……」と僕が意見を出すと「そうね、じゃあこっちをお願い」といった感じで、テキパキと二人で作業を進めて行く。
    我ながらいいコンビネーションだなと思わずにはいられなかった。絶交中だったはずなのに。

    夕方になる頃には、すっかり部屋は片付いていた。
    埃やらでかなり汚れた顔や手足を洗って一息ついていると、宅配ピザが届けられた。
    「わたしのおごりなんだから、感謝しなさいよ」
    「そう言う神谷さんはこの部屋で今までさんざん僕の料理を食べてたじゃないか」
    「それもそうね。じゃあその分のお礼も兼ねてってことで」
    と言ってニッコリと笑う。
    「安上がりなお礼だな」
    口ではそう言いながら、久しぶりに見た神谷さんの笑顔にひどくホッとした気分になった。
    一緒にピザを食べながら、神谷さんはこれまでのことを話しはじめる。噂はある程度本当で何人かの男とつきあいかけたけど、ことごとく短期間のうちに避けられるようになってしまうか喧嘩別れしてしまったそうだ。
    「さすが、天下御免のわがまま姫だな」
    「でも、なんでも言うことを聞いてついてきた後輩もいたのよ。ひとりだけ」
    「それで?」
    「その余裕、なんかムカツクわね」
    昨日までの僕だったらきっとひどく動揺していただろう。でも今こうして一緒にピザを食べていると言う事実から、どうなったのかある程度推測できる。
    「でもなんか言いなりすぎて張り合いがないっていうか、子分としては便利だけど恋愛の対象外っていうか、気が利かないから相手をしてるとイラつくし、結局振ってやったわ」
    「勝手なやつ」
    「うるさいわね」
    その献身的な後輩の男にちょっとだけ同情したくなったけど、彼が振られたおかげでまたこうして神谷さんと楽しく話をしているわけだ。
    「あなただってわたしと会っていない間に羽根を伸ばしたたんでしょ?女の子と二人で学校から帰ってるのを何度か見かけたわよ」
    「そ、それは……ちょっと頼まれごとがあったからで……別につきあうとかそういうのでは……」
    「ふう〜ん、でも楽しそうだったわよ。ちょっとは期待してたんじゃないの?」
    「う……」
    もうどちらが謝るとか、そんな雰囲気ではなかった。そんなことはとっくの昔にどうでもよくなっていたんだ。
    あとは、何か仲直りするためのきっかけが必要なだけ。そのきっかけを僕が作れなかったことがちょっと情けないと思いながらも、彼女に感謝したい気持ちでいっぱいだった。

    「神谷さん」
    「え?なに?」
    「ええと……その、今日はありがとう」
    「なにが?」
    「こうして呼んでくれて」
    「わ、わたしは、掃除を手伝って欲しかっただけよ……お礼を言われるようなことはしてないわよ」
    「そうだね」
    意地っ張りな姫様だ――――そう思いつつ僕は彼女を抱きしめた。
    彼女はちょっとびっくりしながら、何も言わず僕の背中に腕を回す。
    キスは、ピザの味がした。

    「ああそうだ」
    「なに?」
    「ここは僕の部屋なんだからやっぱり手伝ったのは神谷さんのほうじゃ……」
    「今さら雰囲気をブチ壊してんじゃないわよ」
    「ご、ごめん」


  3. 高校卒業後のるり姉

    神谷さんと二人、ファミレスで るり姉を待っているとPHSが鳴る。るり姉からだ。
    もともと携帯電話を買おうと思っていたんだけど、神谷さんがPHSを使っているので「PHS同士のほうが通話料が安いから」という神谷さんの薦め(命令?)で、僕としてはどちらだろうがあまりこだわっていなかったこともあってPHSを使っている。
    「るり姉、仕事で30分ほど遅れるって」
    「ふーん、忙しそうね」

    もともと、るり姉も僕や神谷さんと同じ地元の大学へ進学していた。ところが3年目に入ったばかりの頃、突然中退して事務用品を販売する小さな会社に入ってしまった。大学の先輩がその会社で役員をしていて誘われた、そこの社長からもぜひ来て欲しいと直接言われたそうだ。父も僕も卒業してからでも遅くない、それまではアルバイトとして働いていればいいじゃないかと反対したのだが、るり姉は聞き入れなかった。
    後から聞いた話では向こうも卒業まではアルバイトのつもりで誘ったら、るり姉のほうから今すぐ学校をやめるので社員として雇って欲しい、と無理に頼んだそうだ。
    今では小さな会社ということもあって、営業担当の重要な戦力として活躍しているという。あくまで るり姉の自称だけど。

    そしてその「活躍」の裏では僕がさんざん手伝わされている。こんなこともあった――――

    その日は るり姉がアパートに来て僕達と食事をするというので早めに料理の仕込みをしていると、ドアを開けて るり姉が入ってきた。
    「ああ〜、疲れた〜。ごはんできてる?」
    「神谷さんが来るまで待ってくれよ」
    「いつごろ来るの?」
    「あと1時間くらいかな」
    「ええ〜っ、おなかすいた〜っ!先に食べようよ〜」
    「ダメ。来るのが早すぎるんだよ」
    「じゃあ、パソコン使わせてくれる?打ち込んどきたいデータがあるから」
    「いいよ。でも僕は仕込みが残ってるから自分で打ち込んでくれよ」
    「はいはい。じゃあ勝手に使うわよ」
    実はもうほとんど仕込みは終わっていたんだけど、こうでも言わないとたいてい僕がやらされてしまう。今日はうまく逃げられたと思って安心していた。
    ところが少したってから るり姉の様子を見に行ったら、あっさりと見つかってしまった。
    「あれ?もう準備終わったの?」
    「あ…う、うん」
    口に出してからしまったと思ったけど手遅れだ。
    「よーし、じゃあ交代!」
    「なんでだよ。るり姉がそのままやればいいじゃないか」
    「あんたのほうが速いでしょうが」
    るり姉にさんざんやらされたからだ。好きで速くなったわけじゃない。
    とはいっても特にやることもないので断る理由を思いつけなかった。
    「……わかったよ。でもこの前みたいに横でゲームやるのだけは勘弁してくれよ」
    「ちっ」
    「そのつもりだったのかよ」
    「……っと、じゃあこっちの机使うわよ。書類広げるから」
    「他にやることがあるのにゲームしようとしていたのか?」
    「いいじゃない。あんたは早くそれを打ち込みなさいよ」
    そう言うと机の上に書類を並べてあれこれ見ながら手帳に何か書き込んでいる。るり姉でもまじめに仕事をすることがあるんだ、と今さらのように思った。

    データの打ち込みもほとんど終わり、そろそろ神谷さんも来る時間だと るり姉のほうを振り返ると、もう机の上は片付けられていた。
    るり姉の姿を探すと、なんと神谷さんの着替えが入っている引出しを開けている。さすがにこれはマズイ。
    「なにしてんだよ、るり姉」
    「え?……ああ、あんたがエッチなビデオをどこに隠してんのか探してたら見つけちゃってね。これ、菜由ちゃんの?」
    「そうだよ。勝手にいじると僕がやったと思われるんだからやめてくれよ」
    「へー、このブラなかなかカワイイわねー」
    まるで聞いてない。
    とにかく、るり姉を引出しから引き離そうとそっちへ近づくと、いきなり僕の目の前に下着を突き出した。
    「ホレ、菜由ちゃんのパンツ。頭にかぶってみたい?」
    発想がオヤジだ。
    「いいかげんにしろったら」
    るり姉から下着を取り上げようと手を伸ばすが、あっさりとかわされてしまう。
    「ホーレ、かぶりたかったらこっちだよー♪」
    「な、なんでそういうことになるんだよっ」
    しばらく部屋の中をぐるぐると追いかけ回し、やっと るり姉の腕を掴んだ。そのとき――――

    「ごめーん、ちょっと遅くなっちゃった。るりさん来てるんでしょ?」
    部屋に入ってきた神谷さんは、僕たちを見つけた瞬間硬直してしまった。
    神谷さんの目に入ったのは、彼女の下着を持って僕から逃げようとしてる るり姉と、るり姉の腕を掴んで下着を奪い取ろうと手を伸ばしている僕。
    彼女がそれをどういう意味に受け取ったかは想像したくない。

    「……いったいなにやってんの?」
    神谷さんの声も表情も目いっぱいこわばっていた。


  4. るり姉の計画

    るり姉がやっとファミレスに着いたようだ。
    「ごめんごめん、客先でつかまっちゃってさ」
    「何の話なんだよ、わざわざこんなとこに呼び出して」
    「その前に食事にしましょ。おなかすいちゃった」
    「賛成!ほら、メニュー取ってよ」

    ひととおり食事を済ませたところでもう一度訊いてみた。
    「で、話ってなんだよ?」
    「わたし、今の会社辞めて新しく会社作ろうと思ってんのよ」
    「ええっ!」
    いきなりとんでもない話だ。
    「な、何の会社をするつもりだよ」
    「パソコンスクールというか、講習の請け負いみたいな仕事ね」
    そういえば神谷さんはそういうバイトをしていたな。横を見ると神谷さんはあまり驚いているという様子でもない。
    「菜由ちゃんには少し前から相談に乗ってもらっていたからね」
    「ぜんぜん知らなかったよ」
    確かにそういう話なら神谷さんは詳しいだろうし、僕に相談しても仕方がない。とはいっても、僕の知らないところでそんな話が進んでいたというのは、なんだか仲間外れにされた気分だ。
    「それじゃあ今日は何で僕まで呼んだんだ?」
    「それを今から話すところよ。今までは相談だったから、菜由ちゃんにもあらためてお願いするわ。二人とも、一緒に会社やらない?」
    「ちょっと待てよ、神谷さんは経験があるけど僕は素人だぞ」
    「どうせあんたは就職先も決まってないじゃいない」
    「だから同情して雇ってやるっていうのかよ。冗談じゃない」
    就職が決まっていない話を持ち出されたのはさすがにムッときた。
    「……なんか勘違いしてるみたいね。一応自信はあるとはいっても新しく作った会社なんてどう転ぶかわかったもんじゃないし、余分な人を雇う余裕なんてないの。あんたの力をあてにしてるから誘ってんのよ。だいたい、わたしはあんたを雇うなんて一言も言ってないわよ」
    「え?どういうこと?」
    「出資者とか役員ってことよ」
    神谷さんが助け舟を出した。
    「それじゃあなおさら僕に何ができるってんだよ」
    「親の金で大学まで行かせてもらっといて『ボクは何もできませ〜ん』なんて言うつもり?甘えてんじゃないわよ」
    それは大学を中退した人間の言うセリフではない。
    「講師が菜由ちゃんだけじゃ足りないから何人かアルバイトも雇わないといけないし、お給料の支払いとか事務的な処理をあんたにやってもらおうと思ってんの。あと、機材やらを運ぶこともあるからやっぱり男手があったほうがいいし」
    「要するにめんどくさい雑用は僕に押し付けようってことか」
    「あんたがそう思いたいんならそれでもいいわよ。ただ、誰でもいいってわけじゃないのよ。チームとして一緒にやっていくからには、お互いのことをよくわかっている人間同士のほうが都合がいいし、やりがいもあるでしょ」
    「じゃあるり姉は何をするんだよ。女社長として椅子にふんぞり返ってるのか?」
    「……変なマンガの見すぎよ。わたしはあんたたちが食いっぱぐれないように仕事を探さなきゃならないの。これだけはあんたたちには無理だって言い切ってもいいわよ」
    「それだよ。今どき実績もないのにパソコンスクールの看板出しただけじゃやっていけないくらい僕でもわかるぞ。何かあてはあるのかよ」
    これには神谷さんからつっこまれた。
    「ちょっとちょっと、何のためにわたしも相談に乗ったと思ってんのよ」

    それから詳しい話に入っていった。
    会社を作ってしばらくは一般向けのパソコンスクールのような形でなく、企業向けの研修や役所や商店街などが行なうパソコン教室の講師などを請け負うのが中心になる。るり姉が事務用品の営業として抱えている得意先にいくつかあてがあるそうだ。
    資金に関しては半分の50%がるり姉、僕と神谷さんが15%、とはいっても僕も神谷さんもそこまで貯金はないので、足りない分はるり姉からの貸しということにしておくらしい。るり姉、そんなに溜め込んでたんだ――――
    「あれ?残りの20%は?」
    「今わたしのいる会社の社長さんよ。わたしが独立を決めたのもこの人のおかげなんだから。あんたたちがやることに決めたら紹介するわ」
    「るりさん、その人も一緒に仕事をするの?」
    「ううん、出資だけよ、そこまで暇な人じゃないし。っと、今日はだいたいこんなところかな。あとは二人でじっくり考えてちょうだい」
    「るりさん、返事はいつごろまでにすればいい?」
    「決まってからやらなきゃいけないこともいろいろとあるから、来週くらいまでには返事が欲しいな。それと最後に言っとくけど、自分自身がやりたいかどうかで決めてね。やり始めたらきついこともあるだろうから、わたしのためとか恋人のためなんて動機じゃあ、こっちとしても信用できないから」
    少し乗り気になりかけていただけに、痛いところを突かれた。僕は本当にこの仕事をやりたいんだろうか?
    「じゃあ、先に帰るわね。ここはわたしのおごりにしとくから」
    そう言うとるり姉はさっさと席を立ってしまった。

    るり姉が席を立つとすぐに神谷さんが話しかけてきた。
    「るりさんてすごいわねー」
    「神谷さんは前から聞いてたんだろ?」
    「それはそうだけど、なんかかっこよかったじゃない。1歳しか年が違わないとは思えないわ」
    言われてみるとそのとおりだ。ひとつ上というだけでいつも偉そうなんだが――――そう思ったとき、入り口のほうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

    「ちょ、ちょっとるりちゃん、離してよ!」
    見ると、ウェイトレス姿のやっこ――――向井弥子がるり姉に羽交い絞めにされている。僕はうんざりしながらそちらへ行った。
    「何やってんだよ、るり姉」
    「ほらほら、やっこだよ、やっこ」
    「見ればわかるよ」
    「見てないで助けてよー。わたし仕事中なのに、信じらんなーい!」


  5. 始動

    結局、僕も神谷さんもるり姉の会社に参加することになり、いろんなことを決めたり、手続きをしたりと準備に追われることになった。
    会社名は「有限会社ビッツクラブ(Bits CRAB Inc.)」だ。僕はゲーム会社の名前をくっつけたみたいで嫌だと反対したんだけど聞き入れてもらえなかった。
    それから僕が車を持っていないことが何かと不便なので、会社名義で買っておくことになった。とはいってもできるだけ出費を抑えることと機材を運んだりするときのことを考えて中古車の中から選んだのがスズキのエブリィ、ワンボックスの軽自動車だ。
    るり姉のシビック、神谷さんのキューブと比べると落差があるけど、まあ会社の車なので実用性重視だ。それにどんな車だろが自分が自由に使える車が持てたことはそれなりにうれしかった。

    会社がスタートしてもすぐに仕事があるわけではない。特にお役所関係は年度が変わらないと仕事に入れないことも多い。それまでは準備や交渉や手続きに追われ、実質的な初仕事は4月になってからになった。市役所が主催する初心者向けの講習で、場所は会社からひと駅ほど離れた公民館だ。
    いろんなルートからかき集めた中古パソコンが予備も含めて45台、これを全部初期化してインストールしなおすだけでも大変な手間だ。
    それを公民館に運び込むわけだけど、講習に使う部屋は前日の午後6時まで他のことに使われていてセッティングできない上に、公民館は9時には閉められるのであまり時間に余裕はない。
    「さあ始めるわよ、モタモタしないで」
    るり姉の声とともに部屋に入って、まずは机と椅子を並べる。そのあとパソコンを取りに行って部屋に戻ってみると、神谷さんがホワイトボードの前に立って部屋を見渡していた。
    「みなさ〜ん、最初にこれだけは憶えておいてくださいね」
    予行練習のつもりだろうか。そんなことより手伝って欲しいんだけど。
    「マカ逝ってよし!!」
    「あのなあ……」
    「冗談よ。本番で言うわけないでしょ。ホントは言ってやりたいけど」
    「るり姉がマック使ってること忘れてないか?」
    「あ……」
    ちょうどるり姉は部屋にいなかった。
    「今言ったことをばらされたくなかったら手伝えよ」
    「ふ〜ん、わたしを脅迫しようっての?いい度胸じゃない」
    そう言いながらも神谷さんはケーブルをつなげていく。

    やっとのことで全部を並べ終わり順番に電源を入れていったそのとき、いきなり部屋が真っ暗になった。
    「うそ!ブレーカー?」
    「くそっ!」
    パソコンの台数が多かったので、この部屋のコンセントで使える電力量をオーバーしたらしい。
    「どこなのよ!ブレーカーは」
    「それは僕が知ってるから、何台か電源コードを抜いておいて」
    そう言ってから、目が暗さに慣れるのを待ってブレーカーを復旧させる。
    部屋の明かりがつくと、さっそく神谷さんが僕のほうへ文句を言いにきた。
    「いったい何やってんのよ!下見の時に容量を確認してなかったの?この役立たずっ!!」
    ものすごい剣幕だ。でも僕も少し腹を立てていたんだ。
    「そのときは神谷さんも一緒だったじゃないか。ブレーカーの位置も確認していなかったくせに」
    「それはあなたの役目でしょう!」
    「いつそんなこと決めたんだよ!」
    「はーい、そこまで」
    るり姉が割って入った。
    「今はケンカしている場合じゃないの。時間がないんでしょ?」
    そう言うと僕のほうに向き直って
    「あんたがなんとかしなさい」
    「はあ?」
    「どうすればいいか考えなさいって言ってるの。これは命令よ」
    神谷さんは心配そうに僕のほうを見ている。
    「……ちょっと、事務所に行ってくる」
    「あっ、待ってよ」
    神谷さんが僕を追いかけようとするのをるり姉がさえぎる。
    「とりあえずあいつに任せておきましょう。その間にできることはない?」
    るり姉の声を背中に聞きながら、僕は公民館の事務所に向かう。

    僕が事務所で借りてきた延長コードを持って部屋に戻ると、二人は電源が落ちてしまったパソコンに異常がないかチェックしているところだった。
    神谷さんが声をかけてくる。
    「どう?なんとかなりそう?」
    「今から説明するから」
    不安な表情を浮かべている神谷さんに、延長コードのリールを掲げて見せる。
    「隣の部屋のコンセントから電源を取ろうと思ったんだけど、あいにく明日は両隣の部屋で使う予定になってたんだ。でも、こっち側の部屋は特に電気を使う必要はないそうだからコンセントを使わせてもらうように頼んできた。この通り、延長コードも貸してもらったよ」
    「それで電力は足りるの?」とるり姉。
    「さっきは30台くらいまではブレーカーが落ちなかったから、この部屋で20台、隣からも20台分の電源を取れば余裕だよ」
    「でも、もうあまり時間はないわよ」と神谷さん。
    「それも頼んできた。30分ほどなら待ってくれるって」
    「よーし、あんたにしては上出来ね」
    「ほんと、ちょっと見直したわ」
    この二人からここまで誉められるなんて、そうそうあることではない。ちょっといい気分になりながら、三人で手分けして電源コードを繋ぎなおしていく。

    全部のパソコンが無事に立ち上がったのを確認したとき、神谷さんが缶を三つ抱えてきた。
    「お疲れー、飲み物買ってきたわよ」
    「ありがとっ、コーヒーもらうわね」
    るり姉がさっさと缶コーヒーを持っていく。僕がお茶の缶に手を伸ばそうとすると、神谷さんは
    「あなたはこっちよ」
    と、オレンジジュースのほうを僕に手渡した。
    「あれ?神谷さんはお茶よりはオレンジジュースのほうが……」
    「いいからいいから」
    珍しいな、と思って飲んでみるとつぶつぶ入りだった。なるほど――――

    「ふー、お疲れ様、さっきはあなたのおかげで助かったわ」
    神谷さんはそう言いながら空き缶を僕に手渡す。
    「別に大したことをしたわけじゃないよ。お疲れなのはお互い様だし」
    そう言ってから、神谷さんから受け取った空き缶を見る。僕が捨ててこいってことか。こんな風に自然に、当たり前のように雑用を人に押し付けるところはまさに「姫様」だ。でもそんなに嫌な気はしなかった。単に僕がこういうことに慣れすぎているせいかもしれないけど。
    「そうよねー、落ち着いていれば誰でも気がつくことをしただけだしねぇ」
    「そういうるり姉は考えようともしないで僕に押し付けたじゃないか」
    「それだけあんたを信頼していたってことよ。現に何とかなったじゃない」
    さらにるり姉は神谷さんのほうに向いて言葉を続ける。
    「菜由ちゃんも知ってるように、こいつは頭もよくないし大したとりえもないけど、こういうときには意外と機転が利くのよ。菜由ちゃんもこいつをうまく使いこなしなさいよ」
    僕のほうが使われる側だということはもう決まっているような言い方だ。
    「そうね、それじゃあ今日のごほうびよ」
    そう言うと神谷さんは僕の目の前まで近づいてきて、僕の頬にキスをする。
    神谷さんの身長だとキスをするためには僕の肩にしがみつくような格好になる。二人きりならともかく、るり姉の目の前ではさすがに恥ずかしい。
    気になって、るり姉の様子をうかがおうとしたら、るり姉と目が合ってしまった。
    「なあに?私からのごほうびも欲しいの?」
    「い、いや、いらない」
    その僕のあわてぶりを見て神谷さんはクスクス笑い出した。

    「じゃあそろそろ引き上げるわよ。片づけを始めましょう」
    そういいながらるり姉は余ったケーブルを集め始める。それを見て神谷さんも僕のそばを離れてパソコンの電源を順番に落としていく。
    僕は三人分の空き缶を捨てるために部屋から出ようとした。遅くなったので晩ごはんをどうしようかと考えながら。そのとき、僕の足に何かが引っかかった。
    「あ――――――――――――っ!」
    神谷さんの叫び声が夜の公民館に響き渡る。
    その声を聞かなくても、僕は自分の足がやってしまったことを理解していた。
    「……やっちまった」
    振り返ると、パソコンのモニターが20台ばかり消えている。神谷さんが電源を落としたのはまだ2、3台のはずだ。そう、僕の足が隣の部屋から引っ張ってきた電源コードを引き抜いてしまったんだ。
    神谷さんとるり姉の視線が僕を睨みつける。二人は大きく息を吸い込むと、同時に僕に向かって大声をあげた。
    『この大バカ者――――――――っ!!』


  6. フォーマルドレス

    るり姉と会社を始めてからもう3年目に入っていた。その間には何度かピンチもあったりしたが、おおむね順調に会社は大きくなっていった。
    人も増えて講師は菜由の他に10人ばかり、その中には高校時代コンピューター部の部長だった菜由を追い掛け回していた副部長もいた。今でも菜由や僕は「副部長」と呼んでいたら、なんとなくそのまま彼の会社での肩書きも副部長になってしまっていた。
    人数が増えたこともあって事務のほうも僕一人の手では足りなくなり、人を雇うことにした。これで初めて僕にも「部下」ができたわけだ。偶然にもこちらも高校時代の同級生で1、2年と同じクラスだった田中さんだ。いや、鈴木さんだったかな?佐藤さんだったかな?
    菜由からは「うれしそうな顔してるわよ」とからかわれたけど、今も昔も知り合い以上の間柄ではない。
    それはともかく彼女が加わったおかげで事務はずいぶん楽になった。
    だけど今の僕の主な仕事は、るり姉や菜由が勝手なことをやり過ぎないようにブレーキをかけることだった。二人とも仕事のほうはそれなりにやるのだけど、自分勝手というか公私混同が多いんだ。

    今日も僕は伝票を手に持って菜由の机に向かう。
    「菜由、なんだよこの領収証は」
    「最新型のマザーボードよ。そう書いてあるでしょう」
    「そうじゃなくて、仕事に必要なものなのか?台数が足りないわけじゃないんだろ?」
    「今すぐ必要なわけじゃないけど、一応どんなものか確かめておきたいのよ」
    「それじゃあ完全に菜由の趣味じゃないか。会社の経費で落とさないでくれよ」
    「仕事にも使えるんだからいいじゃない」
    「それならこんなに高いものをわざわざ買わなくていいだろ。とにかく経費としては認めないからな」
    「えー、ケチ〜ぃ」
    そんなことをしているところにるり姉がやってくる
    「おはよう。またやりあってんのね」
    「待てよるり姉、このバーの請求書はどういうことだよ」
    「交際費よ。それくらいわかるでしょ」
    「誰と飲みに行ったか言える?」
    「えーと……まあいいじゃない、固いこと言わないでよ」
    まったく、この酒飲み女は。
    「ダメ。一人で飲みに行って交際費で処理できるかよ」
    「はいはい、悪かったわね」
    そう言うとさっさと奥の部屋に入って行った。
    ふと見ると、菜由が僕の顔をうかがっている。
    「どうかしたの?」
    「気のせいかもしれないけど、最近のるりさん、いつもと様子が違わない?」
    「そうかな?」
    「なんか考え事してることが多い気がするし、さっきだって妙にあっさり引き下がったし」
    「そう言われれば、いつもなら無理矢理にでも僕に処理を押し付けるような気がするけど……昨日遅くまで飲んでてまだ眠いからとかじゃないかな?」
    「うーん、そういうのとは違う気もするんだけど……弟のあなたがそういうなら、わたしの気のせいかもね」
    その場ではそれで話は終わったけど、後になって菜由のカンが正しかったことを思い知ることになった――――

    そんなことがあって数週間後、僕たち三人はホテルのレストランでディナーと洒落込むことになっていた。それがよりにもよってこのあたりでは一番立派なホテルで、さらにるり姉からきちんと正装をしてくるように言い渡されてしまった。
    るり姉はこういうことも今のうちから経験しておいて損はないと言うけれど、僕に言わせれば何で食事をするのにわざわざそんな堅苦しくてめんどくさい格好をしなければいけないのかわからない。それでもそういうところで出される料理は食べてみたいと思ったし、何よりも菜由が乗り気だったので僕もつきあうことにした。

    車で菜由と一緒にホテルへ行くために、彼女の家まで迎えに行く。会社ではネクタイを締めることも滅多にないので、フォーマルなスーツを着るのは高校時代の同級生の楠瀬さんの結婚式に出席したとき以来で、慣れていないから車を運転していても妙な感じだ。
    うまい具合に今日は晴れてくれた。まだ梅雨明けはしていないが天気がいいと日中は汗をかくぐらいの暑さになる。でもそろそろ夕方なので、この時間帯なら汗の心配はしなくて済みそうだ。
    菜由の家に着くと、まだ着替えている最中だったので多少待たされることになった。10分ほどして僕の待っている部屋にフォーマルドレスを着た菜由が入ってきた。
    ワインレッドのシフォンレースから白の裏地が綺麗に透けて見える。ビスチェとかいうらしい肩が剥き出しになったタイプで、胸元は上品なシルバーのネックレスで飾られている。
    「どうしたの?」
    菜由に声をかけられて我にかえる。どうやらずっと見とれてしまったようだ。
    「あ、ああ、ごめん」
    菜由はクスリと笑って
    「弟もあなたと同じような反応だったわよ。こういうときに気の利いた誉め言葉のひとつでも出ればかっこいいのにね」
    「あ……ええと、すごくきれいだよ」
    ちっとも気が利いてない。
    「あはははは。そのほうがあなたらしくていいかもね」
    「ごめん……でも本当に似合ってるよ」
    かわいらしさに溢れ、それでいて子どもっぽい感じはまったくしない、若さと知的な落ち着きを兼ね備えている雰囲気が菜由にぴったりだと思った――――って、こういうときに限ってそんな言葉が出てこないんだよな。
    「ありがと。でもネックレスはお母さんのお下がりだし、服もほとんどお母さんが選んだようなものなんだけどね」
    「いいお母さんでよかったね。じゃあ行こうか」
    菜由のお母さんに挨拶してから菜由をつれて車へ向かいながら、もし僕の母さんが生きていたらるり姉にどんなドレスを着せるんだろうかとか考えていた。

    僕の車は先月納車されたばかりのレガシィツーリングワゴンに出世している。さすがに正装して軽のワンボックスでホテルに乗り付けるなんてことはしたくないのでいいタイミングだった。
    菜由のために僕が助手席のドアを開けてやる。いや、いつもならこんなことはしないのだけど、さすがにドレスを着ていると乗り降りしにくいだろうと思って自然にそうしていた。テレビドラマなんかでこういうシーンを見たときは変に気取っているだけのように思えたけど、実際にその場面にいると無意味な行動ではないことがわかる。
    助手席に座った菜由に声をかける。
    「シートベルトはちゃんと締めろよ」
    「この格好で?」
    「どんな格好でもシートベルトはしなきゃダメだよ。嫌なら後ろの座席に乗ればいい」
    「助手席に乗せたのはあなたじゃない」
    そう言いながらもシートベルトをしてくれた。最近は僕の言うことも多少は聞いてくれるようになったけど、それでも負けず嫌いのせいかひとこと言わなければ気が済まないようだ。
    車を出す前に電話でるり姉と連絡を取る。
    「るり姉も同じ頃にホテルに着きそうだって」
    「ねえねえ、これ本当に似合ってる?るりさんが何着てても負けないかな?」
    「そんなことで勝ち負けなんか気にするなよ」
    いや、菜由でなくても女心としては気になるものなのかもしれない。でも僕は下手なことは言わないほうが平和を守れると思った。

    僕たちがホテルに着くと、ちょうどるり姉が車から降りるために靴をスニーカーからハイヒールに履き替えているところだった。るり姉の車は真っ赤なホンダS2000で、目立つのですぐわかる。でもその車を見て、僕は何かとても大事なことを忘れているような気がした。
    「わ〜あ」
    車から降りてきたるり姉を見て菜由が声をあげる。るり姉もバッチリ決めてきていた。
    るり姉は光沢のある淡いブルーのドレスで肩から紐で吊るされている分胸元が大きく開いてネックレスが輝いている。裾は菜由のドレスのように広がっていない。こういうのにまったく詳しくない僕は同じフォーマルドレスでもずいぶん違うもんなんだな、とこちらも見入ってしまった。
    「このネックレス、ダイヤなの?」
    「ううん、イミテーションよ。しかも借り物」
    「わたしのはお母さんのお下がりなの」
    「いい物みたいねー、わたしもそんなに詳しくないんだけどさ。似合ってるわよ」
    二人で楽しく盛り上がっているようにも見えるし、お互いに相手の装備を品定めしているようにも受け取れる。
    こうして二人が並んでいると、身長差のせいもあってかるり姉の方は大人の女の魅力を全開って感じだ。とはいってもるり姉だってまだ25歳なわけで、単に僕が本当にアダルトな女性を知らないだけなのかもしれない。
    「そろそろ中に入ろうよ」
    放っておくといつまでも立ち話を続けそうな二人に声をかける。
    「そうね、おなかもすいてるし。行きましょう、菜由ちゃん」
    「よーし、突撃!」
    いや、突撃ってのは違うだろ。


  7. 衝撃

    ホテルは山の中腹の見晴らしのいい場所にあって、周りは緑に囲まれている。おかげで2階にあるこのレストランからでも少しずつ明かりの灯りだした街を一望できた。

    高級そうなレストランだけに、料理もなかなかのものだった。初めて目にするものもあって、気になるのでウェイターに材料や調理方法を聞いていると菜由が文句をいってきた。
    「恥ずかしいからやめてよ」
    「でも、どうやって作るのか気にならない?」
    「おいしければそれでいいのよ。自分だけ料理できるからっていい気にならないでよね」
    「別にいい気になってるわけじゃないよ」
    そこへるり姉が口を挟む。
    「いいんじゃないの?きっとあとでわたし達のために作ってくれるんでしょ?」
    「そっか〜、じゃあがんばって覚えてね」
    「無茶言うなよ」
    「メモならすぐに出せるわよ」
    「恥ずかしいんじゃなかったのかよ」

    そんなやりとりを見て、るり姉がつぶやく。
    「本当に、あんた達はいつも楽しそうね」
    どういうわけか、るり姉には僕が楽しんでいるように見えるらしい。
    その言葉を聞いた菜由は、ちょっと心配そうな顔をしながらるり姉に尋ねる。
    「やっぱり……なんかあったの?」
    「まあ、ちょっと個人的なことだけどね」
    その言葉を聞いて初めて、るり姉の表情にわずかな陰があることに気がついた。
    「……藤島さんのこと?」
    菜由はためらいがちに僕たちの会社に出資している、以前るり姉が働いていた会社の社長の名前を出す。僕たちも会社の役員として何度か顔を合わせているが、なぜここでその名前が出てくるのか僕にはわからなかった。
    「菜由ちゃんにはわかってたのか……」
    「ううん、ただ、ひょっとしたらって思っただけ」
    二人がいったい何の話をしているのか僕にはさっぱりわからない。
    菜由が僕の方を見て、それに気づいたように言葉を続ける。
    「まだわからない人もいるみたいだけどね」
    るり姉はそんな僕を見てほんの少し笑いを浮かべながら
    「この際だから白状しとくわ、わたしと藤島さんはつきあってた……男と女の関係だったの」
    僕にはすぐに意味が飲み込めなかった。
    「は?だって藤島さんは奥さんも子どももいるんじゃ……あっ、ええっ?」
    「そういうことよ」
    「……ちっとも知らなかったよ」
    「あんたみたいな鈍いのまで気づいてるようじゃカンのいい従業員にもばれてるだろうし、それじゃ困るのよ。たかだか25歳の女社長がそういうことをしているのをよく思わない人もいるだろうしね」
    「男と女の関係『だった』ってどういうこと?」
    菜由はそこが気になるらしい。
    「そのまんま。もう終わったってことよ」
    「……」
    僕たちが黙っていると、あわてたようにるり姉が続ける。
    「別にケンカしたとか嫌いになったって訳じゃないのよ。ただ、一緒にいても以前ほど楽しくないというか、これ以上関係を続けてもお互いのためにならないというか……」
    その言葉に、僕は無性に腹が立った。
    「ためにならないのは最初からだろ、奥さんがいる相手なんて。なんで今になってそんなはっきりしない理由で別れてんだよ。それともるり姉は自分が社長になるために利用しただけなのかよ!」
    「な……この!」
    るり姉が立ち上がって僕に向かって平手を振り上げる。それを見た菜由があわてて立ち上がり、僕をかばうように割って入った。
    「やめてよ!」
    るり姉が落ち着いて席へ着くのを見届けると、菜由も自分の席に座りなおす。そして僕に向かって一言注意した。
    「あなたも言いすぎよ」

    るり姉は話を続ける。
    「会社への出資は純粋にビジネスの問題よ。わたしとつきあってるというだけでお金を出すほど甘い人じゃないし、きちんと利益を上げているんだからとやかく言われる筋合いは無いわ。それ以外のことはわたしと藤島さんのプライベートな問題、あんた達が口を出すことじゃないわよ」
    「僕はるり姉の弟なんだ。姉の心配をして何が悪い」
    そんな僕の言葉を無視してるり姉は続ける。
    「とはいってもね、会社の方はあんた達が立派に動かしているし、わたしがいなくても十分にやっていけそうな気がするのよ。こっちとしてもそれじゃあ張り合いがないし、この際辞めちゃおうかなって」
    さらに追い討ちをかけるような爆弾投下だ。
    「そんな……るりさん抜きじゃ、とてもやっていけないわよ」
    「今すぐにってわけじゃないのよ、これからわたしのやっていた仕事も覚えてもらうし、わたしの方も次に何をやるか考える時間が欲しいからね」
    僕には何でるり姉が僕にこんな仕打ちをするのか理解できなかった。るり姉の気持ちを考える余裕なんてこれっぽちもなかった。
    「いいかげんにしてくれよ。るり姉が辞めるんならこんな会社を続ける意味ないよ、僕も一緒に辞めてやる!」
    「あんたこそいいかげんにしなさいよ。そうやっていつまでもわたしを頼ってんじゃないの」
    「そういうるり姉こそ、めんどうなことはいつも僕に押し付けてたじゃないか。今さら僕抜きでやっていけるのかよ」
    「だからこそ、わたしもあんたに頼らずにやっていこうって話をしてんのよ。それに会社から抜けるってだけで、別に離れ離れになるわけでもないんだしさ」
    「とにかくダメだ!るり姉が辞めるなら僕も辞める」

    「あのー、ちょっといいかな?」
    菜由がここで口を開いた。
    「あなたまで辞めちゃったらわたし一人で会社をやっていけっていうわけ?」
    「あ……」
    正直、るり姉のことで頭がいっぱいでそこまで考えていなかった。
    「日ごろわたしのことをわがままだとか言っておいて、いざとなったらずいぶん無責任なのね」
    菜由の言葉が胸に突き刺さる。
    「でも……いや、だから……とにかくるり姉が辞めなければいいんだよっ!」
    「もう決めたことなのよ。それに、仮にわたしがやっぱり会社に残ることにしたとして、一度は辞めようとした人間にどれだけやる気が残っていると思う?そんな人を仕事のパートナーとして信用できる?」
    もう頭の中はぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかわからなかった。見ると、二人とも困った顔をして僕を見ている。

    三人ともしばらく黙ったままでいると、急に菜由が僕の肩を掴み、強引に自分の方へ向かせた。
    「あなたにはわたしがいるじゃない!」
    あまりにも突然だったので、僕には何のことかすぐにはわからなかった。
    「るりさんがいなくてもあなたにはわたしがいるし、わたしにもあなたが必要なの。そしてるりさんは新しい場所へ進もうとしている。そりゃあ、わたしだってるりさんが辞めてしまうのはさみしいし、不安だけど、むしろわたし達はるりさんの新しい出発を祝福してあげなきゃ」
    「でも……僕は……」
    「そろそろるりさんを自由にしてあげなさいよ」
    「え……?」
    「この3年間、るりさんはわたし達と一緒に、わたし達のためにがんばってくれたのよ」
    「いや……それはどうかしらね……わたしはやりたいようにやっただけだし」
    るり姉が小声でささやくが、菜由は耳を貸さない。
    「だからもう、るりさんには自分のやりたいことをやらせてあげてもいいじゃない。だいじょうぶ、わたしとあなたがいれば会社はなんとかやっていけるわ」
    菜由はそこまで一気にまくしたてると、立ち上がって僕の頭を胸に抱きしめる。
    僕は菜由のなすがままに胸に顔をうずめながら考えた。菜由の言っていることはどこか強引だし、僕が気にしているのはるり姉が会社を出て行くことで、その後の会社がどうなるかなんてどうでもいいと思ってる。
    でもこうして抱かれていると、強引な理屈だろうが何だろうが菜由はなんとかして僕を励まそうとしていること、菜由にとって大切なのはるり姉のことでも会社のことでもなく、僕のために必死になっていることに気がついた。
    あいかわらず僕には大したとりえはない。でも、そういう僕を必要としてくれる菜由がいる。そしてそんな菜由を支え続けることこそが、誰にもできない僕だけの務めのような気がした。
    僕はるり姉や菜由のように何かやりたいことや実現したい夢があるわけでもなく、それがなんとなく二人に対するコンプレックスのように感じることもあった。でも菜由の夢を実現するために力になること、菜由の支えになることこそが僕のやりたいことであり、菜由と一緒に夢を見ることが僕の夢だと、今は自信を持って言えそうな気がする。

    「……わかったよ」
    そう言って僕は顔を上げる。少し涙の浮かんだ顔で無理に笑顔を作って菜由に見せると、るり姉の方に向き直る。
    「るり姉がそうしたいなら好きにすればいい。あとは菜由と一緒になんとかやって見せるよ」
    本音を言えばるり姉が辞めることにはまだ納得できなかった。でもこれ以上菜由に心配をかけるわけにもいかない。
    きっとそんな僕の心の内はるり姉にもお見通しだっただろう。僕に微笑みかけてひとこと言っただけだった。
    「ありがと」

    だが、そのあとるり姉の笑顔はニヤついたものに変わる。
    「いいもの見せてもらったわ。おふたりさん」
    そう言われて僕は思わず顔を真っ赤にした。
    「ななな、何を」
    だが菜由は平然とるり姉に言い返す。
    「るりさん、もしかして妬いてる?」
    「なーにいってんのよ」
    二人の間にちょっとだけ火花が飛んだような気がした。


  8. 新しい夏へ

    その後、一息つくためにるり姉がお手洗いに立ったので菜由と二人で話が続く。
    「妬いてるのはわたしの方よ」
    「え?」
    「いい歳して姉と一緒に仕事ができなくなるってだけで、あそこまで必死になる弟が他にいると思ってんの?辞めるのがわたしだったらあんなにまで引き止めてくれるかな、ってさすがに思っちゃったわよ」
    「バカなこと言うなよ」
    「ま、そんなとこも含めて好きになっちゃったんだからしかたないか」
    「それを言うなら僕だって、なんでこんな人遣いの荒いわがまま女を好きになったのかわからないよ」
    「あなたはるりさんで慣れてるでしょ」
    そこへるり姉が戻ってきた。
    「あんた達も長いつきあいなんだから、そろそろ結婚のことも考えてるの?」
    「ななな、何をいきなり」
    「どうしようかなー、重症のシスコンだしねー」
    そう言って菜由は笑っているが、僕はるり姉のことが落ち着いたらそのことも決断しなければいけないと考えないわけにはいかなかった。

    「あっ」
    会話の合間にたまたま窓の外の夜景を眺めていた菜由が声を上げる。菜由の視線の先を追いかけると、小さな光が空中を漂っていた――――蛍だ。
    考えてみるとこのホテルは周囲を林に囲まれていて近くには小川もある。一応蛍がいる条件はそろっているとはいえ、僕たちが住んでいる街からそう遠くない場所に蛍がいることは驚きだった。
    ホテルの人の話では、最近ではこの場所でも珍しくなっているらしい。
    「そうかぁ、もう夏なのねえ」
    るり姉がひとりごとのようにつぶやく。

    そう、高校時代に菜由に初めて会ったのも、るり姉が会社を始めようと言ってきたのも夏だった。僕にとっての夏は何かが始まる特別な季節のような気がする。

    また新しい夏が始まる
    今、そう決めた

    「それじゃあ祝杯あげなきゃね。高いシャンパンを頼むわよ」
    そう言ってるり姉が二人の同意も待たずにオーダーを出す。
    「るり姉は飲むなよ。車で来てるんだから」
    「シャンパン一杯くらいなら大丈夫よ」
    「ダメだよ。そんなこと言ってるから、この前みたいに酒気帯び運転で免停食らうんだよ」
    そこまで言ってから、るり姉の車を見たときに気になった「忘れているような気がする大事なこと」を思い出した。
    「るり姉……免停の講習行った?」
    「あ……えーと、そういえば忘れてたわ。最近はいろいろあったから」
    るり姉もやっと思い出したようだ。視線が落ち着かない。
    「るり姉の免停は講習に行けばその日で終わるから、さっさと行けって言ってたのに」
    「だからそれどころじゃなかったって言ってるでしょ」
    「だったら自分で運転するなよ。僕が迎えに行けば済んだ話じゃないか」
    「忘れてたって言ってるでしょ。あんたもしつこいわね」
    こんな姉を野放しにしていいんだろうか?
    「……とにかく、帰りは僕がるり姉の車を運転するから、菜由は僕の車を運転して帰って……」
    「あら、それは無理よ。わたしさっきからワイン飲んでるし」
    「う……どうすんだよ」
    途方に暮れて頭を抱えている僕に、能天気な二人がさらに追い討ちをかける。
    「あっ、シャンパンが来たわよ。でもあんたは運転しなきゃいけないからジンジャーエールね」
    「じゃあ、るりさんの再出発にカンパーイ!」「カンパーイ!」

    ついさっき、るり姉のためとか菜由のためとかそんなことを考えて決意したことを、さっそく僕は後悔しはじめていた。


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